トロツキー Leon Trotsky
トロツキー Leon Trotsky
寝室の北の壁に残る弾痕
トロツキーをご存じですか? (左の写真)
ロシア革命の最高指導者の一人。 1879.10.26〜1940.8.21。
赤軍の創始者。ロシア革命(十月革命、1917)は、トロツキーとレーニンにより指導された。1924年レーニンが死去するとスターリンが台頭しトロツキーと対立する。政治力に長けたスターリンが勝利し、トロツキーはメキシコに亡命しそこで暗殺される。メキシコ・シティに彼の住み家が博物館として残されているというので訪問した。予想をはるかに越える強烈な印象を受けた貴重な体験であった。
レオン・トロツキー博物館
メキシコシティの中心、ソカロから地下鉄に乗りHidalgoで乗り換えおよそ20分、Coyoacanで下車。気持ちの良い住宅街をおよそ30分歩き、 まずフリーダ・カーロ美術館へ。 ここは、フリーダ・カーロが夫のディエゴ・リベラ(メキシコを代表する画家)とともに過ごした私邸である。ここに展示されている作品は少ないがフリーダファン必見のところのようだ。
ここから、歩いておよそ10分でレオン・トロツキー博物館に着く(左写真は、後述する居間の外側の道路から撮影した)。
まず、この博物館の入場者が多いのに驚いた。高校生もたくさんいて、熱心にメモをとっている。彼は、もう過ぎ去った歴史の忘れられた人物と考えていたのだが・・・それは違うようだ。
トロツキーがメキシコに来たのは1936年である。最初は、上に述べた、リベラ、フリーダ夫妻の好意で彼らの家に住んでいた。1938年に夫妻らとともに撮影した写真が下のもの。左端がリベラ、隣がフリーダ、ナターリヤ夫人、中央がトロツキー。
リベラ夫妻との関係がうまく行かなくなり、(フリーダとの不倫)1939.5.5、近所のこの家に移り住んだ。前年の1938年には「第四インターナショナル」を結成している。
この家では、そうした政治活動とともに、著作や庭の手入れ、小動物の世話をしていた。この庭にトロツキーの墓がある(左)。
トロツキーの住居
墓の向こう側にトロツキーの住居が当時のまま保存されている。左の写真は庭から写したものである。まず路の奥の居間に入る。
居間(左写真)の南と東は道路に面していて窓があるが、南の窓は壁で完全に閉ざされ、東の窓は下半分が閉ざされ上だけ光が入るようになっている。居間の北に台所がある。
台所と居間の途中から西に廊下があり、書斎に通じている。さらにその奥が寝室、さらに孫の寝室と続いている。北側のトイレやバスタブも当時のままである。
寝室での銃撃事件
トロツキーとナターリヤ夫人の寝室で最初の事件が起た。1940年5月24日早朝、Muralist David Alfaro Siqueriosを首謀者とするおよそ20人がこの家を襲った。スターリンの命令によるものである。家の門を開けてこの一味を引き入れたのは、トロツキーの筆頭秘書であったRobert Sheldon Harteである。左の写真の窓は、当時は庭に通じるドアであった。首謀者のSiqueriosはここから強力な銃で数百発撃ちこんだ。その弾痕が今も残っている。また、スペイン人の画家Antonio Pujoroは書斎のドアから、メキシコ人の画家Luis Arenalは別のドアから銃撃した。襲撃者は焼夷弾も投げ込んだ。これは、トロツキーの暗殺とともに彼の著作類を焼却することが目的だった。
こうした攻撃にもかかわらず、トロツキーとナターリヤ夫人は襲撃者の死角となる位置に身を避けこの災難から身を守ることが出来た。
当時の事件を伝える報道。この写真の左下の男はトロツキーの筆頭秘書で襲撃者を引き入れたRobert Sheldon Harte。
この事件後、メキシコ大統領、Lazaro Cardenasの命令で、この家は要塞化され、ドアを金属製の頑丈なものとし、寝室のドアを窓に改造して鉄製の防護窓とし、また家全体に警報システムを備えた。
1940年ごろ、スターリンはライバルを次々粛清していた。ジノビエフ、ラデック、ブハーリン、ビアタコフらの革命の功労者も既に亡き者とし残る大物がトロツキーであった。(トロツキーの息子も誘拐され殺害されている。)
書斎での暗殺
寝室と居間の間に書斎がある。トロツキーはここで日に10時間は働いた。そして、彼の最期の場所となった。
1940年8月20日、トロツキーの秘書の恋人としてこの家に出入りをしていたRamon Mercader del Rioは、持っていたピッケルでトロツキーの後頭部を打ち抜いた。これがトロツキーの致命傷となり翌日病院で死亡した。暗殺時、机の上は本でいっぱいであった。当時彼は「スターリン伝」を執筆中でスターリンの知られざる面を記述していたという。 享年60歳。
机の横にはエディソンの録音機があり仕事の記録に使っていた。左の書棚には辞書や年鑑類(なんと、「英文日本年鑑1931年版」がある! 左写真)、また北の壁の大きな書棚には、レーニンの著作、マルクス・エンゲルス著作集、86冊のBrookhaus & Efron Russian Encyclopediaその他がある。
博物館には、トロツキーの家族の悲劇にも触れられて多くの写真があった。下にその概要を示した。
トロツキー家族の悲劇
Trotskyの最初の妻Sokolovskaya-不屈な革命運動を続け1935シベリヤ強制収容所へ。2、3年で死亡。
Sokolovskayaの子 Platon Volakov1920年代逮捕射殺
Sokolovskayaの子 Man Nevislon1920年代逮捕射殺
Trotskyの長女 Zinaida -夫Platon Volkovが逮捕射殺された後市民権を剥奪される。精神的に不安定となりベルリンで自殺(1933.1.5)
Zinaidaの長女Alexandra Moglina -ソ連に残るも、生長後強制収容所へ。奇跡的に生き延び1989死亡。
Zinaidaの長男Sieva Volkov-現在メキシコ在住。
Trotskyの次女 Nina 1920年代結核、1928年死(26才)夫、Man Nevilson射殺。
Ninaの長女(1925生) -祖母Sokolovskayaに育てられるもSokolovskaya逮捕後は行方不明。
Trotskyの長男Leon Sedov -インターナショナナル運動家。パリでスターリンの手のものに暗殺される。
Trotskyの次男 Serguei 政治活動家ではなかったが、Trotskyを非難するのを拒否したため逮捕され射殺(1937)。
トロツキーの子孫で残ったのは孫のSieva Volkovだけである(左写真)。
おわりに
共産主義・社会主義国家建設は、20世紀の現代史では二大大戦とならぶ大事件であり、人類史における壮大な実験でもあった。それを指導し、失脚後も新しい国際共産主義を作り上げようとしたトロツキーについて初めて身近に感じることができた。また、個人的には、1960〜1970年代の日本の学生運動・労働運動で、日本共産党に反対するグループが「トロツキスト」と非難されていたのを思い出す。トロツキストと呼ぶ側にも、それを呼ばれる側にも知人がいて、今もあざやかに皆の顔を思い出す。青春の忘れがたいシーンが目の前をよぎり、目頭が熱くなる。しかし、私は残念ながら、トロツキーその人の思想に触れる機会はなかった。
彼が追い求めた理想とはなんであったのだろうか?トロツキーの著作もぜひ読んでみたいと思う。
メキシコでの思いがけない出会いに、自分の青春時代と20世紀の歴史を振り返った貴重なひとときであった。
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