背景

19世紀中葉、合衆国南部では綿花を中心とする広大な農場を黒人奴隷を使って経営していた。これら、奴隷労働を必要とし、法で奴隷制を容認する「奴隷州」に対し、工業が発達しつつあった北部諸州は資本主義にふさわしい雇用関係を求め、また人道的な観点からも奴隷制に反対していた。当時、西部開拓が進み新しく誕生した中西部の州で奴隷制を容認するか否かで南北の対立が深刻化していた。

戦端

奴隷制度廃止を掲げるアブラハム・リンカーンが1860年に大統領に当選した。これに反発した南部11州は、州は独立する権利があると主張し合衆国を離脱、「アメリカ連合国」The Confederate State of Americaを結成した。これに対し、リンカーンはこの離脱を認めないと宣言した。戦争を回避しようとする努力が続けられるなか、翌1861年、南部のサウスカロライナにあり合衆国に忠誠を尽くすサムスター砦に対して南部が武力を行使した。これを発端として、北部23州と南部11州の間に戦争が始まった。 1865年に終結するまでアメリカ人が経験した史上もっとも血なまぐさい戦いとなった。

名称

英語では現在は普通単にThe Civil War(内戦)と呼ばれる。が、これは北部からの呼称。南部はそうは呼ばない。”The War Between the States”、”Mr. Lincoln’s War”、”The War for Southern Independence”等々。日本訳として「南北戦争」とされたのは、日本や大陸の「南北朝の戦い」からの連想と思われる。
(図はウィキペディア、「南北戦争」より)

南部の攻勢

南部は、北部の横暴に対して州の権利を守る独立戦争との意識で南軍の士気は高く、リー将軍の攻勢が続く。南北の境界に近いバージニア州
が主戦場。戦いは人海戦で、一つの陸上戦で万人単位の兵士が失われるという消耗戦であった。

ゲッティッスバーグの戦い

リーはしばしば北部への侵攻を試みる。バージニア州のシェナンドア山脈とアパラチア山脈に挟まれた谷は北部侵攻の通路となる。その北部に位置するペンシルバニア州ゲッティッスバーグで偶然南北の軍が遭遇し、3日間の壮絶な戦いとなる(1863年7月1日〜3日)。
南軍優勢のうちに戦いは始まる。第1日目は、南軍はほぼ勝利をものにしていたが、リー将軍は敵の全容をつかみきれず勝機を逃してしまう。第2日目、南軍の猛攻にかろうじて北軍は踏みとどまる。

第3日目午後、砲撃戦の際に北軍が計略的に砲撃を弱め、大砲が破壊されたと思わせた。これを機に南軍の総攻撃が始まり肉弾戦となった。北軍が南軍兵士を挟み撃ちにするなか、南軍は勇敢に進軍を続けた。特にピケットが指揮する突撃隊の中央突破攻撃は凄まじかったが、その5000の兵のうち4200が失われた。南軍の攻撃は粉砕された。戦局は転回する。翌4日アメリカ独立記念日に、リーは雨の中血みどろの戦場を後に南に撤退した。 北軍も損害が大きくリーを追うことはできなかった。北軍72000、南軍50000が戦い、3日間で北軍23000、南軍28000の死傷者を出した。(写真はゲッティスバーグのシクロラマ)

ゲッティッスバーグ演説

この年11月に、この地に共同墓地が造られ、リンカーン大統領が追悼演説をした。その短い演説の最後に彼が語った言葉、「人民の、人民による、人民のための政府」”that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth”は合衆国が目指す民主主義をもっとも的確に表すものとして今も頻繁に引用される。

南北の力の差

ゲッティッスバーグの戦いは南北戦争の転機となり、この後は総動員態勢の全面戦争になる。それまで防壁を用いることを良しとしなかった両軍が塹壕を使うようにもなった。しだいに南軍は守勢にまわる。南部は、当時世界で最も裕福な地域であったが、北部に比べて人口も少なく(北部2200万人、南部900万人でそのうち350万人は奴隷)工業も遅れていた(工場数:北部11万、南部1.5万)。

全面戦争と南部の荒廃

この戦争は、引き分けなら連合国が存続し事実上南部の勝ちであることから、北軍は南部の徹底的屈服を迫り悲惨な戦争が続く。西部戦線のグラント将軍、南部戦線のシャーマン将軍は南部の町をひとつひとつ焼き払い痛めつけ、その破壊行為は凄惨を極めた。1864年末のシャーマン軍によるジョージア州・アトランタから大西洋岸への進軍で起こされた悲劇が「風と共に去りぬ」に描かれている。1865年4月、連合国の首都リッチモンドは北軍の攻勢を前にして、敵に僅かな慰めも与えまいと南軍自らの手で焼き払われ廃墟となる。この後、リッチモンド西方のアポマトックスAppamatox付近でリー将軍がグラント将軍に降伏し戦争は終結した。北部は戦争景気で繁栄する一方、南部は荒廃し南部人の心に大きい傷が残った。特にシャーマン将軍の名は今でも感情的な反応を引き起こすという。

死傷者

南北戦争の死傷者は、北部65万人、南部45万人、計110万人である。これはアメリカ人の死傷者としては、第二次大戦の108万人に匹敵する(第一次大戦は32万人、ベトナム戦争は21万人、朝鮮戦争は16万人)。

アブラハム・リンカーン(1809.2.12 - 1865.4.15)

2009年は、リンカーン生誕200年記念の年。オバマ大統領の誕生もあり、2月にはリンカーンを偲ぶ催しがいろいろあるのではないか?    


閑話休題

この時期、日本は幕末の戦乱(1859~68)、シナ大陸は太平天国の乱(1850~64)、
欧州はプロシアーオーストリア戦争(1866~7)、中東はクリミア戦争(1854~6)、インドは反英大反乱に続く英領インド成立(1857~8)、など全世界が戦乱下にあり、思想界でもダーウィン「種の起源」(1859)、マルクス「資本論」(1867)が発表されるなど大きな転換期にあった。

このように同時期に世界中で動乱が起きたのはなにか理由があったのだろうか?

ためしに、太陽活動を調べてみた。図は、太陽の黒点数である。1860年ごろに黒点数が高いことがわかる。さらに見ると、20世紀はさらに黒点数が高く二度の大戦との関連を想像してしまう。太陽の活動が人間活動に影響を与えたのだろうか?

(世界史と黒点数の関係についてのこの推論は詰めが甘く根拠が薄いことをお断りします)

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参考とした資料:Craig L. Symonds, “A Battlefield Atlas of the Civil War”グレイグ・L・シモンズ 友清理士訳 南北戦争ー49の作戦図で読む詳細戦記

 
南北戦争小史