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(旅行記)とんぺいくさまくら 29      Traveling to explore my ancestor, the Kii samurai family

先祖「城井(きい)氏」探訪の旅  -   2018年夏 (附:航空写真)

 ー 大分県中津、耶馬渓、福岡県築城町          森谷 東平  Tohei Moritani

 

     
   

1.「瞼の母」と「戦国武将」

いかにもうかつに聞こえるかもしれないが、自分の母方の先祖に戦国武将がいる、というのをおぼろげに知ったのは40歳代だった。

私の生母、森谷安子(旧姓 城井[きい])は、満州で私を産み戦後厳寒の中で長女を亡くし苦難の経験をした後3歳の私を連れて祖国に引き揚げた。戦地から帰還した夫と再会した母は東京の病室で満州の体験を散文詩の形で執筆した。出版を楽しみにしていたが、 数ヶ月後に病死したため出版されないままとなった。3歳から私を育ててくれたのは継母である。このような事情で、生母方のことは全く知らないまま成人した。

成人後、父から母の原稿を受け取り、満州での経緯を初めて知った。その原稿をもとに母の名で1998.3に「悲母 あの子は満州の土になった」を出版した。 この出版の過程で、母の姉方に当たる城井姓のご一家とも交流を果たし、母にちなんだ写真や遺品を手にすることができた。また、城井の遠い先祖が豊前、つまり現在の福岡、大分両県にまたがる地に居た武将であることを知った。

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日本史年表・地図(児玉幸多編、吉川弘文館

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2. 戦国武将 城井鎮房(きいしずふさ)

手元にあった日本史地図の群雄割拠のページに城井正房、鎮房の名があり、九州北部を領地とする大名だったことがわかる。大内氏、大友氏という有力大名に挟まれていて、矢印は大内氏からの攻撃を示しているようだ。この図を初めて見たときは、鎮房が歴史小説やTVドラマで取り上げられるような人物であるとは知らなかった。

 ウィキペディアによると、城井氏は下野国(しもつけこく栃木県)の宇都宮氏の分流で、鎌倉時代に地頭として豊前国仲津郡城井郷(現在の福岡県みやこ町)に赴任したのが 始まりという。 元々「宇都宮氏」を称していたがその後「城井氏」を称するようになったのは城井郷に因るのであろう。宇都宮氏は、関東に移る前は京都の武士であったという。「みやこ」の名前はそのような歴史を反映したものであろうか。

城井氏は、その後現在の築上町(ちくじょうちょう)築城(ついき)に城井城を築いて本拠地とした。その本拠地は谷間にあり、城井谷と呼ばれている。

この戦国武将、城井鎮房についての物語を最初に知ったのは、つい数年前にYouTubeで偶然見たNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の中である。今回、それを見直したので、その中で鎮房に関する画面を示して筋を追ってみよう。


(1)本能寺の変の後、明智光秀を討った秀吉は、織田信長の後継者となり、さらに柴田、長宗我部などを討ち、徳川、毛利などの有力大名を従えて、天下人の地位を確立した。彼は、「天下惣無事」つまり日本全土の武将に対して争いを止め自分に従うように号令を発した。その時点で未だ従わない有力武将は九州の島津氏と関東の北条氏であった。

    大河ドラマ、「軍師官兵衛」より
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(2)秀吉から九州征伐の指揮を命ぜられたのは、軍師官兵衛こと、黒田官兵衛孝高(よしたか)である。官兵衛は九州諸侯を味方につける仕事に取り掛かる。右は、官兵衛と城井鎮房の会見の場面で、鎮房(手前に座っている)が所領地、豊前の本領安堵を条件に秀吉軍への参加を申し出た。官兵衛は自分の責任でそれを保証すると確約する。その後、秀吉に直接拝謁した鎮房は再度本領安堵を確認した。

秀吉軍は、城井氏などを先鋒とし、毛利、吉川、小早川の諸将を後詰として総勢20万人という前代未聞の大軍で島津氏を圧倒し九州を平定した。

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(3)九州平定後に秀吉が九州の領地の配分を発表する。画面は、手前の鎮房が秀吉に拝謁した場面で、秀吉は鎮房に九州豊前から四国伊予への国替えを命じる。豊前は黒田官兵衛に与えられることになった。この命令は以前の秀吉、官兵衛との約束を破るもので、鎮房は怒り新任地への移封を拒否する。

黒田氏は、新任地豊前に入国する。鎮房は、官兵衛に面会し約束違反をなじり城井谷の城に籠ることを宣言する。

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(4)当時、肥後(熊本県)では、秀吉に任命された新領主、佐々成政に反旗を翻す「肥後国人一揆」が起き、領国経営失敗の責任を問われ成政は切腹して果てた。豊前でも、黒田氏の支配に抵抗する武将が城井鎮房に従い「豊前国人一揆」を起こす。官兵衛の子息黒田長政は、黒田軍を率いて鎮房平定に向かう(右画面)。しかし、城井軍の巧妙な戦いぶりの前に黒田軍は歴史に残る大敗北を喫する(岩丸山の戦い)。長政はかろうじて逃げ帰ったが新領主の長男として面目丸つぶれとなった。

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(5)黒田官兵衛は新領主として、豊前・中津に新城(中津城)を築く。黒田・城井両軍の争いはその後も続く。攻めあぐねた官兵衛は秀吉と相談の上、毛利に仲裁を依頼し、毛利家家臣である大物、安国寺恵瓊が鎮房を訪ね、鎮房が黒田家の家臣となることを条件に本領安堵とする講和が成立した。

秀吉は自分の命にしたがわない城井氏を憎み、黒田氏に圧力を加える。黒田長政は、城井氏に対する報復を決心し、鎮房を中津城に呼んでだまし討ちをした。画面はだまし討ち直前のシーンで酒を酌み交わした直後に長政の家来と長政自身が鎮房に飛びかかり斬り殺す。鎮房の長男、朝房(ともふさ)は肥後で官兵衛に討たれ、豊前の城井一族はここに滅びた。

(朝房の妻竜子は懐妊したまま逃げのび、朝末を産み、その子信孝は越前松平家に仕えて城井氏の血脈は保たれたという)

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3. 滝、耶馬渓(やばけい)、城井八幡

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      夫婦滝                 鍋ヶ滝

今回の旅では、大分県の別府、湯布院の温泉を楽しんだ後、熊本県の山中にある黒川温泉へ。そこからドライブで耶馬渓に向かう途中で二つの滝を観光した。黒川温泉の西およそ2kmにある「夫婦滝」は2つの川が合流する珍しい滝である。縁結びの滝として人気があるそうだ。ここから北西の小国町から西にあるのが鍋ヶ滝。滝の裏を歩けるのが珍しく、TVのCMで有名になったとかで大勢の観光客が来ていた。鍋ヶ滝からドライブで北上し日田を過ぎ奥耶馬渓から耶馬渓へ。

map耶馬渓マップ(中津耶馬渓観光協会)

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中津城の城主一覧

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築上町歴史散歩ホームページ

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城井家3代、長甫、鎮房、朝房の墓

 

耶馬渓の渓谷美を楽しむと同時にこの辺りにある城井氏ゆかりの地を訪ねた。耶馬渓の中央部の平田集落に城井八幡社があり、近くに城井小学校もある。八幡社の説明板(右写真)によると、鎌倉時代に野仲氏が鎌倉の鶴岡八幡宮の神を遷座したものということだ。中津市の観光サイトに、「城井八幡社の歴史」があり、この地域の最古の神社として大事にされていることがわかる。また、八幡社を建てた野仲氏は城井氏の一族であるということだ。八幡社を訪ねた当日はちょうど祭りの日にあたり、夜には伝統の神楽があるとのお話であったが、残念ながら見ることを諦めた。

この後で訪問する城井氏の本拠地から南に遠く離れたこの地に城井氏が建てた八幡神社があるのはなぜか不思議に思いながら八幡社を後に中津へ向かった。

 


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中津市観光サイト

4. 中津城

中津城は、豊前の新領主となった黒田官兵衛孝高が築いた城。そして、城井鎮房が黒田長政にだまされて謀殺された城である。 黒田氏の後に細川氏、小笠原氏、奥平氏が中津城を受け継いだ(城主のリストが右写真)。

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     中津城           中津城内にある城井神社      中津市内にある合元寺

中津城内に、ここで謀殺された城井鎮房を祀る城井神社がある。その説明板(右写真)が城井・黒田の争いで起きた歴史の悲劇を伝えている。

この城の城主を受け継いだ小笠原氏は、謀殺を忌まわしいものと感じ、鎮房の祟りを恐れて神社を建てたのであろう。謀殺を実行した黒田氏についても、福岡に移封後も長く祟りを恐れ、お家騒動(黒田騒動)や嫡子断絶に関連して色々な怨霊伝説があったそうだ(下記文献2))。黒田長政の家来であった剣豪、後藤又兵衛も鎮房謀殺を起こした黒田家と決別し長政の非道を非難し続けたという。

中津、寺町の合元寺は珍しい赤壁の寺。鎮房が謀殺された日に、この寺に待機していた城井の侍と黒田の侍が戦いその時についた血の跡を覆うために赤くしたと伝えられている。

参考図書
1)宇都宮靖、「鳶の笛 黒田官兵衛と宇都宮一族との戦い」梓書院
2)則松弘明、「呪詛の時空 宇都宮怨霊伝説と筑前黒田家」海鳥社
3)高橋直樹、「戦国繚乱・城井一族の殉節」文春文庫
4)司馬遼太郎、「街道をゆく〈34〉大徳寺散歩、中津・宇佐のみち 」朝日文芸文庫
5)百富宅史、「豊前宇都宮氏と黒田氏の攻防 知られざるその真実」図書出版のぶ工房

これらの書物では、氏の名を「宇都宮氏」としているが城井氏のことである。参考図書5)は、城井方の家来の百富氏が黒田方家来の百富氏と連携して、城井方の長岩城で内応つまりは裏切りをして兵士の無駄死にを減らした、という経過を記録している。

 

5. 城井谷、城井氏の菩提寺・天徳寺

中津から、北九州自動車道で北西に進む。自動車道は、海に沿った平野と左側から張り出している山の境目を縫うように通じている。そこにはたくさんの谷がありその開口部が次々現れては過ぎていくのを見ながらドライブする。大分県から福岡県に入り築城(ついき)で自動車道を降りる。出口から出たすぐのところにある県道237号線を南西に向かって進む。ここが城井氏の本拠地である。城井川に沿って豊かな田園地帯が広がっている。この谷の観光については右に示したウェブサイト、「戦国のムラ 城井谷」に詳しい。

城井氏の菩提寺である天徳寺を訪ねて鎮房らの冥福を祈った(右写真)。

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上の写真の天徳寺の説明板によれば、この寺は、城井氏滅亡時に焼失したが細川氏、小笠原氏により復興されたとのことだ。説明板の中央と左端に「城井瓢箪(ひょうたん)城」とある。これは、城井谷の入り口から伝法寺付近までが広いがその先の堂山付近は両側から山が迫って瓢箪のような形となり、この地形を活用して谷全体を難攻不落の城としたことを指している。

   

6. 旅を終えて

母方の先祖・城井氏の歴史と足跡を実際に見ることができて満足している。中津城では、黒田官兵衛・秀吉との軋轢によって起こった城井氏滅亡の悲劇を身近に感じて悲しい思いをした。が、先祖の地、城井谷ではその平和な風景に心和み、城井の名が各地で大事に保存されているのを目の当たりにして、数百年前の先祖と心の通じ合うのを感じたのが何よりのことであった。この地を再びゆっくり散策することを夢見て、またこの地に眠るであろう城井氏の魂に別れを告げ帰途に着いた。

 

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航空写真

羽田から大分までの飛行機の窓から地上を撮影した後、地図と見比べて場所を比定し記入した。中学時代から
国土地理院発行の5万分の1などの地図を求めて、訪れる土地があらかじめどのようなところか想像す
るのが 好きであった。

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1. 羽田を飛び立ってまもなく見えた富士吉田と取り巻く山々。 学生時代に登山した三つ峠山頂上からの富士の優美な姿を思い出す。飛行機の左翼の窓からは眼下に富士山が見えていたはずだ。写真ではわかりにくいが、富士吉田市の街並みの左北に見える暗い(山と同じような色の)平面が河口湖で、湖面の右に河口湖大橋も見える。01

2. 赤石山脈(南アルプス)の力強い山並み。 伊那谷には中学時代の正月に2回行った良い思い出がある。霧ヶ峰では、学生時代にグライダー訓練を受けた。国内で富士山に次ぐ標高の北岳(3192m)にはクラスメート3人と登山した。頂上付近は荒天で、山小屋がすし詰め状態だったのも懐かしい。
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3. 木曽山脈(中央アルプス)主峰の駒ケ岳(2956m)の向こうに御嶽山(3067m)、乗鞍岳(3026m)がそびえ、その先の山地の中に3年前に訪れた高山があり、その先にそびえるのが白山(2702m)。白川郷は白山の北側のふもとにある。木曽と飛騨を一望する景色だ。
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4. 濃尾平野を流れる3っつの大河、左から揖斐川、長良川、木曽川。長良川と木曽川の合流点が見える。豊かな田園だ。この3っつの大河が暴れたら大変だ。正面遠方には三国が岳、冠山があり、その先は福井。これから関ヶ原上空に向かう。
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5. 関ヶ原から彦根へ。関ヶ原合戦の武将の陣容を思い浮かべ、また伊吹山頂上で谷から吹き上げていた強風を思い出す。関ヶ原は、古くから日本の東西を結ぶ交通の要衝で、現在も東海道本線、新幹線、名神高速道路の全てがここを通っている。そこを通らずにひとっ飛びできるのは飛行機のおかげだ。
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6. 画面下は琵琶湖の東南岸。 右下の安土山は織田信長が安土城を築いたところだ。その当時は、この山の麓まで琵琶湖が接していたという。名古屋から京都に向かう街道筋の丘の上の城は人々に新しい時代を感じさせたであろう。眼下の八幡山の南にある街は近江八幡。秀吉のおい、秀次が開き、琵琶湖に面した海運の利を活かした近江商人発祥の地である。
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7. 琵琶湖と湖岸から立ち上がる比良山系。まだ登ったことがないが、比良山系、蓬莱山(1174m)からの雄大な眺めが想像できる。飛行機左翼側からは京都市の街並みが見えてくるだろう。琵琶湖大橋にはメロディーロードがあるそうだ。
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8. 中国山地は低山が連なりランドマークとなる山や大河が少ないので比定が難しかった。地図と照らし合わせて、赤穂市の北の上郡(Kamigori)であるとわかった。山地の川沿いに畑や街が続いているのがよくわかる。日本の典型的な山村風景が思い浮かぶ。
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9. 総社 高梁川。豪渓のそそり立つ岩を思い出す。左翼席からは私が長年住んでいた倉敷市が見えていたであろう。鬼城山には7世紀ごろ築かれたとされる朝鮮式山城、鬼の城(Kinojo)跡がある。
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10. 竹原の北部にある広島空港。左翼側から見えていたであろう竹原とその沖の契島を想う。
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11. 広島と江田島
12. 厳島と大竹

13. 岩国。錦帯橋を訪れたのは中学時代だった。錦帯橋のすぐ上の山頂は吉川広家が作った岩国城があったところで、現在は再建された天守があるが写真では小さな点に見える。門前川の西(写真で左)に広い農作地帯があり、さらにその西の一角は東洋紡岩国事業所。

14. 光市には行ったことがないが、空から見る象鼻ケ岬は印象的だ。  ここから瀬戸内海を超えて大分空港へsdf

わずか1時間あまりの飛行であるが、日本の自然、地形、市街地が織りなす景色が豊かで見ていて飽きない。

最後までお読みいただきありがとうございました。