錦州への旅

錦州への旅

錦州への旅   森谷 東平 Moritani Tohei

 

1.心の故郷、錦州

私は、錦州郊外、女児河(じょじが)の製錬所の社宅で1943年に生まれた。製錬所の技術者であった父はその翌年に応召され、1945年8月の終戦時には不在であった。終戦直後の9月に周辺暴民の襲撃を受け、工場の水源地の丘に逃げた数百人とともに、丸裸に近い状態で錦州市街に避難したという。母と私と一歳年上の姉の三人は、父の同僚の小林さんをリーダーとする約三十人と共同で難民生活を送った。酷寒と栄養失調で姉は死に、多くの遭難者とともに「南山」に埋められた。筆舌尽くせぬ極限状態であったという。飢える子供をやむなく中国人に預ける例も多く、
後の残留日本人孤児たちとなった。幸い私は帰国できたが、母は復員した父に私を渡すと力尽きたのか他界した。 他界前に自分の体験を長い散文詩として残してくれた。(この散文詩は、1998年に「悲母 ー あの子は満州の土になった」として日本エディタースクール出版部から出版された)南山の訪問が今回のツアーに参加した第一の動機である。錦州は、母が遺した散文詩や、「あの日夕焼け」あるいは「ワイルドスワン」などの書物で想像するばかりで、長い間私の心の故郷であった。


2.旧満州への旅

成田から北京へは中国国際航空で三時間である。空港で、漢字で書かれたパネルの内容がだいたい理解できるのがうれしい(注 - 私は中国語は全くできない)。その中に、「外国に学ぼう」、「もし、中国で悪いことに気がついたらぜひ左の番号に連絡してください」とある。改革開放政策の表現と思われる。

寝台列車に乗り八時間、早朝、地平線まで耕作地が広がる大地を眺めるうち、錦州駅に到着した。市のお役人から錦州市に関して丁寧な説明を受けた。人口は約三百万人で、中国の都市のランク(人口の多い順)は四十番目である。産業は、工業と農業で、農産物、果物、海産物等が豊富である。私の住む大阪にも野菜を出荷している。中国・東北地方は石油の埋蔵量が多く、今後有望な工業地域になると考えられる。錦州市は外国からの投資を歓迎している。外国との合弁企業は27あり、約$1500万。


3.ああ、半世紀!

(1)蘇った千年の古塔

今回日本人の寄付も含めて見事に修復なった「古塔」は澄み切った青空にそびえ、煉
瓦の民家が並ぶ旧市街の狭い路地の先にあった。周辺は地元の中国人でごった返し、日本人の私たちを見て無表情ながらあきらかに好奇心を示している。式典は、錦州市人民政府主催で実施された。政府、関係団体に続き「錦州会」の熊谷団長が挨拶され、ブラスバンド、テープカット、鳩と続く。宗教的な行事はなかった。この塔が日中両国の友情の証のひとつになってほしいと願う。その気持ちを伝えたく、式典後、集まった人たちと「再会(ツアイチェン)!」「再会!」と握手を繰り返した。私の手を一生懸命握り返してくれる人たちは質素な服装をした庶民である。五十年前にこの街ですれちがった人たちではないかと思うと胸が熱くなる。現地では翌朝のテレビ、新聞でも報道された。「古塔」が日本人有志の援助を加えて修復されたことは引揚げ五十年の行事として意義深いと思う。


(2)望郷の港とニュータウン

百万人の日本人引揚者が故郷を目指した港である葫廬島(ころとう)をバスで訪問した。今は軍港で、そばの展望台からの見学である。この地区全体が最近まで開放されなかったので、参加した皆の感慨も大きかった。ここは現在は葫廬島市で、旧錦西市と南部の葫廬島地区が1995年に合併してできた新しい名前の市である。両地区の中間に広大なニュータウンが建設され、事務所、病院、学校をはじめ近代的なビルが建設されているのに驚かされた。


(3)パーティではカラオケも

錦州市主催で私たち錦州会を歓迎するパーティをしていただいた。中国側の主な出席者は、李副市長、張副秘書長、劉外商投資企業協会副会長などである。リズムと音量あふれる錦州市のすばらしい民俗芸能が続く。その後、「北国の春」のカラオケもあり、先方はとても友好的と感じた。隣に座った劉女史が半月ほど前に初めて三週間の日本訪問をしたという。その感想を伺うと、「東京は首都で大都市、大阪は商業都市で・・・」という。もっと交流が望まれる。


(4)センチメンタルジャーニー

私の生まれた土地、女児河の工場に着くと、正門に工場幹部が出迎えに見えられ、ビデオカメラの中を貴賓室に通されたのには驚いた。昔、日本人百五十人と中国人数百人(?)が働いていた工場は、今は従業員一万人を擁する「国家一級企業」に発展しており、嬉しく感じた。旧満州時代の建物部分と工場外部の水源地の丘を見学した。水源地には当時のままのれんが造りの塀が残っている。
ここに暴民に追われた八百人の日本人が逃げ込んだといわれるが、その人数が入るには狭い構内である。半世紀前の修羅の声が聞こえるような錯覚を覚える。そのとき一歳の自分がここにいたのかとの感慨にふける。悲劇の場所である水源地の丘の意味は、案内してくださった工場関係者も心得ていたと思われる。応対は終止和やかで、かってここで働いていた日本人の訪問をいつでも歓迎するといわれ、すがすがしい気持ちで工場を後にした。

工場から錦州に向かう道は、暴民に襲われた日本人が水源地から歩いて逃げた道である(写真右)。



姉の眠る地である南山にタクシーで行った。ここには数千人の日本人遭難者が埋葬されたといわれるが、小高い山に今それを示すものはなにもない。姉の埋められた場所を特定する手だてはない。小雨のなか山を登ると、林の中に土盛りがある。人を埋めた土饅頭である。この山全体が故郷を夢見て眠る人々の土地と思い、日本から持ってきたホトトギス、リンドウなどの野草を手向け冥福を祈った(写真左)。


次に、錦州駅東の狭いガードに行く。母の散文詩に登場するこのガードは幅が二メートル、
長さが五十メートルほどで駅の南北を結んでおり、当時のままと思われた。難民生活を送った駅北を歩いたが、アパートが建設され私が住んだ「特機隊舎」はもう無いようであった。「特機隊舎」があったと思われる地点の西側に高さが三十メートルほどの給水塔があり、これは当時のままであるということだ(写真右)。

旧満鉄の社宅であったれんが造りの建物はそのまま残っており、現在も中国人の住居として使われている。


今回の訪問で、わずかな資料で想像していたルーツの世界が具体的なイメージとなった。宿願を果たし、来てよかったと思う。


4.タイムスリップの街、錦州

最近復活したという人力車は、普通の自転車の後ろに乗り場を連結したスタイルである。宿から十分ほど乗って駅前で降りた。歩きはじめてすぐ運転手が追いかけてくる。車内に私が忘れた小型カメラを届けてくれたのである。力いっぱい握手して別れた。駅前にある大きなホテルにある回転式展望台兼レストランから三百万都市が眺められる。下の写真は錦州駅方面で、駅の向こう側は「特機隊舎」

があった場所である。高層アパートが林立する一方で、古いれんが造りの平屋の住居も多い。




繁華街を歩く。市街は清潔である。日本人は珍しいようで、路上で品定めをしていると人だかりができる。交差点の壇上できびきびとしたジェスチャーで交通整理をする警官、自転車で声を張り上げて走る物売りのおばさん、溢れるほどの露天の物売り、板きれに「修革」「電工」などと書いて道路沿いに座っている修理屋、リヤカーを持った運搬屋、その雑踏は一見して、戦前、終戦後の日本にタイムスリップしたかと思える『なつかしい』風景である。
その人たちの目が純朴で最近の日本の都会ではあまり見られない。尾が動いている黒い蚕のさなぎが山と積まれている(写真右)。珍しげにのぞきこむと、売り子が一つつまんで中身の白い液体を食べて見せた。食料品が新鮮かつ豊富なのに比べて日用品は種類も量も少なく、表現のしようもないほどである。ものに溢れて暮らしている日本から見るとそれがかえって新鮮に映る。高級衣料品店のセーターは250〜300元(約3000円)。

街を歩く人、物売りの人の大部分は、質素な服の庶民である。その一方で、こぎれいな服を着てきれいに化粧をした人もいる。なかにはベンツに乗ってやたらに警笛を鳴らす金持ちとおぼしき人もいた。改革開放政策の中で、貧富の差が大きくなっているのだろうか。一方で、東京、大阪のようにホームレスは見かけない。駅前の歩道橋の上に物乞いがひとりいただけであった。市の政府の通訳の話では、月給は若い役人で良くて350元(約4500円)、市の高級役人でも600元(約8000円)とのことで、こぎれいなセーターがいかに高いかわかる。自動車は25万元程度もするので個人では買えない。電話はかなり普及しているようで、役人は(日本ではまだめずらしい)携帯電話を持っている人もいた。

錦州に着いた夜はたまたま全市を挙げてのお祭りで、町中で民族衣装を着て踊り回っていた。東北地方の伝統的な行事「ヤットー踊り」とのことで、阿波踊りのようにリズミカルな音曲に合わせて踊る。私たちが飛び入りすると、見物の中国人は拍手喝采をし、祭りの扇を貸してくれた。調子に乗って踊り続けたのはいうまでもない。

最後に錦州の食事であるが、張氏が自慢しただけあって安くて豊富かつ美味あふれるものであった。特に記憶にあるのはさそりの唐揚げで、ぱりぱりした珍味であった。


錦州を後にして昼間の列車で八時間揺られ北京に戻る。北京は建設ラッシュで、国際都市としての意気込みが感じられた。長城、故宮観光も面白い。ホテルのサービスも欧米・日本並みで良い。しかし、私にはあの錦州の雑踏がなつかしい。


5.おわりに

日中友好の公的目的からも、またルーツ訪問という私的目的からも、大変有意義な旅であった。長く続いた混乱の時代から歴史は移り、中国は今日本との経済交流を切望している。今後、錦州をはじめこの国へは機会があれば何回でも訪問したい。また、日中の交流になんらかの役に経ちたいと願っている。





リンク 日本人引揚者の「生命の駅」葫蘆島

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