12 翡翠(ひすい)の美
ムンバイ博物館
12 翡翠(ひすい)の美
ムンバイ博物館
12/15( 土) ムンバイのプリンスオブウェールズ博物館で西インドやチベットの展示品を鑑賞
「大英帝国」 朝食時にイギリスから来たジョン君と話をする。彼はムンバイが大好きでこれが二度目だという。「大英帝国」時代にイギリスが造った街並みや建造物を見るのが好きなようだ。インドではイギリス人旅行者をよく見かけた。彼らには、古き良き大英帝国を懐かしむ気持ちがあるのであろう。(一方、アメリカ人の旅行者はほとんど見かけない)
ところで、イギリスが自身を「帝国」と称することができたのはインド統治のおかげである。ヨーロッパでは、帝国はシーザーの「ローマ帝国」の権威を受け継ぐ国のみが称することができた。古代ローマ帝国が東西に分裂した(395)後、西ローマ帝国はゲルマン民族大移動の激動のなかで滅んだ(476)。その後ドイツ、オーストリアの王が神聖ローマ帝国皇帝として西ローマ帝国の権威を受け継いだ(962)。この「帝国」は権威のみの継承で、統一国家の体裁がない不思議な体制である。長い中世が過ぎ、ナポレオン一世がヨーロッパを支配したときに、彼は自分がローマ帝国の権威を受け継ぐものとしてローマ法王から帝冠を受けフランス帝国を称した(1804)。神聖ローマ帝国は消滅したが、ハプスブルグ家のオーストリアがその権威を受け継ぎ帝国を称した。その後、フランスは共和制・王政を経て、ナポレオン3世が再び「帝政」を敷いた。この頃、旧神聖ローマ帝国を構成していたドイツ人の国々がプロシア王国に結集、皇帝ナポレオン3世を破り、その帝政の権威を奪った。フランスは共和国となり、ドイツ帝国が誕生した(1871)。また、ロシアは東ローマ帝国(1453滅亡)の権威を受け継ぎロシア帝国と称していた(1547)。こうした権威の裏付けがないイギリスは王国であり、 七つの海を支配した実力を持つ国としてさぞ悔しかったのであろう。一方、 当時 ヨーロッパ以外では、王国とともに帝国を自称する国が沢山あった。オスマントルコ帝国、清帝国、ムガール帝国などである。インドの植民地化を進めたイギリスは19世紀なかば、既に名目だけの存在になっていたムガール帝国を滅ぼし、その権威を奪って、イギリス国王はインド帝国皇帝を兼ねると宣言した(1877)。ここに初めて皇帝を称することができたのである。インドの支配者であることを正当化するためにイギリス人とインド人(特にその支配階級)が同じアーリア民族であるとの学説が進められたのもこの頃である。しかしながら、どう言いつくろってみても、イギリス国王がインド帝国皇帝を兼ねるとは言えてもイギリス帝国皇帝とは言えなかった。その意味では「イギリス帝国」あるいは「大英帝国」は、権威に裏付けされない俗称であると言えるであろう。
なお、ヨーロッパの国でその後帝国を称したのは、ヒットラーのドイツ帝国(第三帝国)がある。日本は、「大日本帝国憲法」発布をもって正式に「帝国」を称し(1889)、「日本国憲法」発布により「日本国」となった(1946)。また、現在元首(あるいは象徴)を「皇帝」に相当する称号、emperor、と呼んでいる国は、世界中で日本だけである。
写真上の左右ともに18世紀の絵画である。物語の挿絵のような感じを受けた。
写真上左は、翡翠(ひすい)製の器で、不透明な翡翠を透明な装飾品に仕上げる技術はインドが最高の技術を有しているそうだ。 写真上右は、象牙製の宝石箱で精細な透かし彫り加工で造られたみごとなものである。
展示された彫像のうち、上の二つは特に印象に残ったものである。左は木製の「賢者の像」で制作年不明。右は、女神像で12世紀の作品である。
その他にも許可をとっておよそ80点を撮影したののをアルバムに載せた。その中には、ムガール帝国のアクバル大帝が着用した鎧や武具も含まれる。
12/16( 日) ムンバイで休養。
昼は、半島の西海岸へ。海とムンバイ市街を望むピザ・レストランで昼食。
久美子は再度博物館へ。私はホテルの部屋でお休み。
12/17( 月) ムンバイから空路デリーへ。そして、NYへ。
12/18( 火) NY着。 「次へ」